まともがわからない

この小さな街にも…奇跡は…あり得る…

「まともがわからない」の一節。彼らの音楽は何だか響いてくる。口に出して、ついつい口ずさみたくなる。そんな魅力がある。嵩増しは思った。
 ゆらゆら帝国というバンドらしいというのは、実は他人から言われてはじめて気付いた。Youtubeの関連動画からたまたまその動画を再生しただけだし、そもそも音楽方面に嵩増しは疎かったのだから、知らないのも無理は無かったが、バンド名を聞いても嵩増しは特に何の感慨も起こらなかった。しかし、音にしか興味がないというのは、ある意味究極的にその音楽を愛しているということなのだろうか。嵩増しは、「まともがわからない」だけは聞き続けた。
 嵩増しは酒を飲みながら、「まともがわからない」を流すのが好きだった。彼は、アルバムを買わず、ほとんどFireTVを再生するだけだったが、次第に関連に表示される、歌謡曲にも引かれるようになった。
 彼が次に嵌まったのは、友川カズキの「サーカス」であった。中原中也に傾倒していたという友川カズキの、「ゆあーんゆよんゆあゆよーん」は、聴くものの心になんとも言えぬ余情を残すが、嵩増しも例外ではなかった。 思えば、酒に合う曲というのは、全てが全てというわけではないようである。特に、酒という飲料の性質は、文学的な情緒、つまり「クサい」ことに感情移入させる機能があるようにも思われ、どこか悲しさを感じさせる曲が酔っ払いの琴線に触れるのである。とかく酔っ払いは文学的である。なぜならこのように酒が文学的な飲み物だからだ。少し脱線してしまったが、歌謡曲という曲の体系は、ほとんど酒の場を想定して作られたものではないだろうか。日本が平成に入り、恋愛の歌が多くなったとき、歌詞はほとんど「君」「好き」「大切」など、紋切り型のものが多くなってしまった。だが、歌謡曲は、それよりも人の内面に根差した深いものが半分以上を占めている。もちろん、日本のポップを批判しているつもりはない。大森靖子椎名林檎、酒の席で聞くと大いに感慨深くなる。この前は、私は10feetの「風」を聞きながら、少年時代の感慨に耽ってしまった。しかし、歌謡曲はなぜこんなに昭和の酒場に似合うのであろうか。
 酒、場、歌の3つが、もしかしたら居酒屋の必要要素かもしれないと言うのは、私の持論である。ロックバーなどという業態があるように、歌は酒と合うというのはもう自明だが、現代の日本の若者には、このような空間は、もはや親父たちのみの居場所のように認知されているのではない。私は唱えたい。若者よ。居酒屋に来い。私はまた唱えたい。若者よ。歌謡曲を聞け、と。男と女の出会いと別れ。機敏。全て、歌謡曲が答えてくれる。劇団VOGAの団員は、最近、京都では、若者が思想談義を居酒屋で交わすことが少なくなったと言っていた。それには時代の趨勢というものが影響しているのもあるだろう。お金が無い、という意見も沢山あるだろう。しかし、私が居酒屋に行こうと大学の友達を誘っても、彼らはチェーン店には行くけれども、個人商店の、歌謡曲がかかっているようなところには、行きたがらないのである。来てくれよ。きっと楽しいのに。私の無念は空回りする。私が異常なのだろうか。そんな時、私は「まともがわからない」とぼやきながら、歌謡曲の流れる昭和風の居酒屋で、自棄になって酒を飲むのである。居酒屋の窓から見える外には車のライトがビュンビュンとながれている。京都の夜である。繁華街の夜である。私はもう一度「まともがわからない」とぼやいた。