東京。京都。関東。関西。私の大学生活。

 東京に住んだことはない。しかし、空想の中でよく東京での暮らしを想像することがある。眠らない街、歌舞伎町。外国人の街、新大久保。サブカルの街、下北沢。若者とそしてラッパーの街、渋谷。などなど。きっと歌舞伎町にはウシジマくんが、今日も誰かの借金を取り立てているし、渋谷ではきっと今日もACEや輪入道たちがサイファーをしているし、下北沢では茶髪ボブカットのサブカル女子大生が、今日もキャピキャピとしているに違いない。僕は馬鹿な妄想を東京に時々抱く。吉祥寺には「ろくでなしブルース」の前田太尊がいる。仲間たちと悪ふざけをしながら学校に通っている。浅草には両津勘吉がいる。今も部長に怒られているのだろうか。新宿のゴールデン街のBARの片隅には、椎名林檎がグラスを片手に物思いに耽ってそうだ。渋谷には、メンヘラの援助交際の少女が、巨大な広告を見上げながら、スクランブル交差点の人混みで誰かの助けを求めて立ちすくんでいるに違いない。僕の妄想はとめどなく膨らむ。あの街にはこんなドラマが。この街にはあの人が。今まで読んできて、見てきて、そして聞いてきた全てのストーリーの舞台は、ほとんどが東京だった。
 「もうやめろ!!!」もう一人の僕が叫ぶ。「今更そんなことを思ったって仕方がないだろ!!もうお前の青春は終わったんだ!!」そう。僕の青春はもう終わるのである。今年の3月の卒業式で、何者にもなれた時代が終わるのである。きっと東京で暮らせたかもしれない可能性もあった時代が。



 僕は京都の大学生だ。京都の大学生というと、「くるり」の曲が思い出されるわけでありますが、世間から「四畳半神話体系」であったり、「そうだ、京都行こう」のキャッチコピーで知られる京都という街の大学生は、恐らく半分以上が東京という大都会へのコンプレックスに、一度は悩まされるはずです。京都でこの通りなのですから、他の地方の大学生はいわずもがなです。僕は、これらの問題に想いを馳せる時、大学一年の時に語学の授業で一緒だったDQNの発言が、自然と思い出されます。「京都何にもない。大阪へいきたい」。彼は恐らく、近くに東京があったら、東京に行きたいと言っていたに違いありません。それは、全地方の大学生たちの悲痛な叫びを代弁しているに、等しい発言です。彼はDQNにしては、とても聡明な頭脳を持っていましたから、就職活動で大都会に行く夢は果たせたのでしょうか。最近の僕の気になることです。



 「無駄だ…」薄暗い六畳間で、僕は呟いた。「変に敬語を使って、つらつらと自分の大学生活を語ろうたって、そうは上手くいかないぞ。その証拠に、もうお前のキーボードを叩く手は止まってきたではないか!」僕は答えた。「確かに…慣れない敬語で説明しようとしたのは無謀だったね…でも言っていることは間違ってなかっただろう。」確かに間違ってない。事実である。京都の大学生のコンプレックスも、DQNの存在も。そういえば、僕は最近DQN大学生協の店で見かけたことがある。目が合ったが、僕のことを忘れていたのか、すぐに視線をそらされて何も言わずにどこかへ行ってしまった。彼は服装が以前より洗練されたように思えたが、きっと聡明な彼のことだし、大阪に頻繁に行っては、一風変わった経験をしてきているのだろうか。いけない。僕はこの頃、すぐに経験値で人を見てしまう。ところで、僕はあれほど東京に対して憧れを抱いていて、勿論今もそうなのだが、これらのコンプレックスが解消されたのはいつのことだったか。




 実家が東京の父の会社の社宅になったのは、大学2年の夏である。急な転勤であった。父と母は東京に行けると喜び、僕は少し、狐に包まれたような感じであった。その頃、少し痛い経験を言わせてもらうと、インターネットの女の子に恋をして、フラれてしまったのである。千葉の、東京大学に通う女の子だった。女の子は最初、僕に接近してきた。そしてカカオトークを交換し、そして同い年であることがわかると、互いに大学生活をどう過ごすか議論し、夢を語り合ったのだ。僕は小説家になりたいと言った。彼女は「フフ…私はねー…今は何だか言うのは恥ずかしいから詳しく言えないけど…有名になりたいの!」と言った。可愛らしかった。女性経験のあまりなかった僕にとっては、この勿体ぶったちょんちょんが、如何にも可憐に感じられた。そういえば、彼女は僕が多く関わっていた、インターネットの女の子には珍しく、自撮りを晒さず、謙虚であった。だから好きになったのかもしれない。フラれた理由は、僕が距離感のつかめないメッセージを送りすぎたという、実に明確な理由であるが、彼女の浅野いにおの女の子のアイコンと、冷静な思慮深さが、東京という単語と一緒に、当時大学一年だった僕に迫って来たのであった。思えば、僕が関わったインターネットの人間は、皆関東の人間であったから、自分が「中心から外れている」という位置関係が嫌というほど、刺激されたのかもしれない。インターネットは当然、人口の多い東京人が沢山いるのである。女の子にはフラれてしまったが、東京が実家に…。頭の中では、椎名林檎の「NIPPON」が、何故か流れていた。

爽快な気分だれも奪えないよ
広大な宇宙繋がって行くんだ
勝敗は多分そこで待っている
そう 生命が裸になる場所で

 僕は結局、京都で1人暮らしをすることになったが、連休には東京の実家に帰ることになった。もはや旅行気分であった。僕の中で、インターネットでのフォロワーたちとの位置関係が、まさに広大な宇宙として繋がったような気がした。気分はまさに爽快であった。東京に行ったら何をしてみよう。憧れの東京に行ったら。。。東京には色んな人間がいるから、不確定なことがいっぱい起こるかも…東京では!東京では!東京では!



 「それで…」「…」「それでどうなったんだっけ」
  そう。結局、人は憧れに近づくと幻想は色褪せてしまうのだ。東京には私が想像していたようなものは何も無かった。新宿にはウシジマくんはいなかったし、ゴールデン街には椎名林檎はいなかった。観光地の鎌倉は、京都暮らしの私には物足りぬ風情であったし、関東の街のほとんどは、私が求めてやまなかった関西のガヤガヤ感がなく、妙に小綺麗で、夢が無かった。全ては幻想だったのである。
 「なるほど…」「そうだ。東京は大したことがなかったんだ。」「でも大したことがないって言ったって、お前が観た東京はほんの一部だろう。」「それもそうだ。でも代わりになるものが出来たんだ。そうだ彼らと出会ったのもこの時期だった…」
東京への失望の代わりに、私に蘇ったのは関西への誇りである。この時期、決定的な出会いがあった。「中島らも」と「織田作之助」の両名である。どちらも関西を代表する文化人であるが、織田作之助のほうが古い。織田は「夫婦善哉」で有名であり、中島らもは「今夜、すべてのバーで」など、酒に関するエッセイや小説が多かった。中島らものエッセイは、酒の味を覚え始めた私を刺激した。アル中で、アルコール中毒の本を読みながら酒を飲んでいたという中島らもに倣い、私も彼のエッセイを読みながら、近所の居酒屋で本を開いて読むなど、ロクに友達もいなかった私は、激しく文学的な情緒に塗れた生活に堕ちていった。この時期、私は学業の傍ら、コンビニエンスストアで働いていたのであるが、そこで貰った廃棄商品で浮いた何万円もの食費代を、全て居酒屋代につぎ込むという、常軌を逸した行動をするのだった。酒の味には、悲惨さが「つまみ」になる。破滅的であればあるほど、酒はますます美味く感じられた。
私がこの時期、特に好んで呑みの場として巡ったのが、大阪・難波の街である。難波は東京には無い色合いがある。夜に、鮮やかに光る道頓堀のネオン街は、私に関西の民であることを、誇らしげに感じさせた。近場の串カツ屋で一杯やる。ほろ酔いになったところで、道頓堀に出る。すると、光輝く大阪文化の看板に彩られた景色が、自分を何か、特別な存在であるかのように思わせるのであった。この難波の妖しげな光については、「夫婦善哉」にもふんだんに描かれている。きっと、織田作之助も道頓堀のネオンが好きだったに違いない。もはや東京には何の未練もなく、むしろ東京を馬鹿にしはじめていたのはこの時代であった。





 「でもお前は…」「…」「今でも東京に憧れを抱いていると、さっき言っていただろう。」「そうだ。僕は今でも東京が好きだ。暮らしてもいないのに好きだ。」しかし、何故また東京が好きになったのであろうか。
 就職活動。大学生の難関。ここで自信を無くすもの。自信を取り戻すもの。あるいは何も変わらないもの。などがいる。私は。私はどうだっただろうか。私はロクにエントリーシートも練習せずに3月から飛び入りで就活を始めた。結果は、惨敗であった。受かると思ってタカをくくっていた会社は、書類の段階で落とされる。書類が通っても、筆記試験で落ちる。面接にたどり着ける企業はわずかであった。考えてみれば、いや、考えなくても3月からの飛び入り参加であれば当然の結果であったが、むしろ能力の限界に対して言い訳になれる、という点で、それはまだ私にとって幸いだったのかもしれない。
 夏のうだるような暑さ。ムシムシとした汗が、スーツに染み込む。私はこの日も、ハンカチを額に当てながら、渋谷の坂を上っていった。出版社の面接試験があるのである。既に、戦意をかなり喪失していた私であった。出版社は狭き門なのである。私は出版業界を志望していたので、先ほど言った実家の社宅から、出版社の沢山ある、東京の会場を毎日あちこち歩き回っていた。
 面接試験。この日は待ち時間がかなりあるらしい。隣の人間と会話でもして暇を潰せと、試験官はそう告げたので、会場内からはぽつりぽつりと、話し声が聞こえた。私もそうしようかと、隣を見ると、隣には、髭の剃り残しがある、メガネの男がいた。メガネといっても、この男のヴィジュアルというのは、オタクのそれではなかった。どこか、かなりの場数を踏んできたというふてぶてしさがある。男は話した。自分は立教大学の学生で、この会社以外にも選考の進んだ会社があると。聞くと、どれも名のある大出版社であったが、果たして面接ではどのような話を聞かせてくれるのかと、私はいぶかる気持ちでいた。
 面接。彼と二人組で面接に挑む。喋らせたのはこのためだったのか?と私が疑問を抱く間もなく、面接官の質問がはじまる。「自己アピールをして下さい」私は意気揚々として、繁華街巡りが趣味であり、はじめての店にも入ることの出来る行動力を持っていますと答えた。対する、立教大学TOEICで900点を叩きだしたということだった。まあよくある。私は驚かなかった。しかし、最後、質問に特に動じた様子もなく淡々と答える立教生に対して、面接官は質問を投げかける「君。緊張をあまりしないね。何故だい。」すると、「私は…そうですね…実は渋谷でプラカードを掲げて、他人の悩み事に相談するというボランティアをやっておるんです。そのせいかもしれません」面接官は驚く。私も驚いた。なんと、彼のふてぶてしさはきっとここから来ていたのだ。面接官たちが興味を示すのが、空気でわかると同時に、私はこの会社は駄目だなと思った。が、どこかすがすがしかった。受かるべくして受かる人間の前に、自分のような就活を3月ではじめたような馬鹿が、叶うわけないと、割り切れたのである。面接が終わると、彼と一緒に部屋まで帰ったが、私は一言も発せなかった。気後れしてしまったのだ。今でも、彼のことを時々思い出すが、それは決まって、渋谷という街にプラカードを掲げる彼という、想像の世界である。混沌の街、渋谷。大都会渋谷。数々の若者が夜を過ごし、居場所のない若者もここで夜を越し、多くの人間のドラマが詰まったこの街。そこに、プラカードを持った彼の姿は、どこか非常に調和するように感じられた。やっぱり東京だ。関西ではありえないことだ。やっぱり東京って凄い。私はそう思った。


薄暗い六畳間は、パソコンのモニターのみが光を放っている。その光に当てられた、22歳の男は、無機質な表情をぴくりとも変えずに、呟いている。「彼の存在は…衝撃的だったよ。嫌な気持ちはひとつもしなかったんだ。」彼は側にあったコップに、サイダーを注ぐと、それを一気に飲み込んだ。部屋は雑多としている、足の踏み場もないくらい。「俺は東京がまた好きになった。でも、今度はコンプレックスなんてなかった。東京を好きになればなるほど、ますます関西も好きになれたんだ。」京都は雪が降っていた。京都の寒さは底冷えするのである。布団にくるまって、出来るだけ温度を保たなければならない。布団にくるまると、まるでイモムシになった気分だった。彼はそんな状態で天井を見上げると、宇宙で自分だけが一人ぼっちであるかのような錯覚にいつも襲われる。「京都…俺は京都が好きだ。でもこの寒さはないよなあ…」しばらく何も考えず、蛍光灯からぶら下がった電気紐を見つめると、彼は目を瞑った。京都は雪が降っていた。