悪役の醜さ

 

 「シンデレラ」をご存知だろうか。恐らくどなたでもご存知ではないだろうか。ここに詳しく書き記すまでもなく、継母にいじめられていたシンデレラが、魔法使いによってカボチャの馬車に乗ってお城に行き、その際に落としたガラスの靴によって王子様と結ばれるといった、お馴染みの童話である。私はこの童話をディズニーのアニメーション映画で観たことがある。流石ディズニーだなあと、美しいアニメーションの映像に見惚れていると、ひとつ、どうしても気になる点を発見した。それは、シンデレラの義理の姉たちの描写である。継母はまだしも、悪役(ヴィラン)としての風格を保つためか、美しいと言えなくもない容姿であるが、姉たちはこれでもかというくらい、醜悪に描かれている。その醜悪ぶりには、制作者たちの悪意さえ感じた。姉たちは最後まで、良心が芽生えることなく、悪役としての最後を迎えるが、「悪はいつまでも悪のままでいい」との、ある種偏見的なものが、そこには垣間見える。それは子供向けの作品に多く見られる「勧善懲悪」という大きな構造の、今まで見向きもされてこなかった陰の部分でもあるだろう。「勧善懲悪」とは何か。なぜ義理の姉たちは救いようのないまでに、徹底的に醜く描かれなければならなかったのか。

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シンデレラの義理の姉たち

 

 

 

① 勧善懲悪とは 

勧善懲悪(かんぜんちょうあく)は、「善を勧め、悪を懲しめる」ことを主題とする物語の類型の一つ。勧懲(かんちょう)とも略す。 (ウィキペディアより)

 

勧善懲悪とは物語のひとつの類型である。わざわざ説明するまでもなく、善悪二元論の世界である。「水戸黄門」で黄門様が印籠を振りかざし、「昭和残侠伝」で高倉健がドスを振り回す、物語の様式美でもある。しかし、この勧善懲悪という様式には、私は昔から疑問を抱いていた。「悪」のことをこれぽっちも考えていないからである。圧倒的な正義が、悪をばっさばさと切り倒すのは良いが、倒された悪は、悪になるまでの過程が必ずあるはずである。そこが考慮されずに、一言で片づけられてしまうのは、あまりにも横暴ではないか。と、ついつい悪に必要以上に感情移入してしまうが、本来こういった「わかりやすい」物語は、子供向けのはずであって、大人がやっかみするのは、少し筋違いと言うべきなのかもしれない。ところで、勧善懲悪はまた後で話すが、シンデレラは童話である。まずは童話(メルヘン)の問題から入って、勧善懲悪の問題を語るとしよう。

 

② 童話とは

以下は童話の傾向である(ウィキペディア参照)

・子どもが容易に想像できて子どもが好感が持てる主人公が登場する。そのため動物など擬人化された存在である場合が多かった。

・行動に明確な結果が待っていて教訓となっている。善行には褒美、悪行には罰というよう因果応報的な展開や結末。

・子どもが飽きるほど長い時間がかかる物語ではなく詩的・象徴的なものが多かった。

この二つ目に記されている「因果応報的な展開や結末」には、先ほど述べた勧善懲悪が当てはまるであろう。そもそも、因果応報も勧善懲悪も仏教用語である。何はともあれ、これらの傾向を統合すると、童話は子供にとって「わかりやすく」「読みやすい」ものであることは確かだ。

 

 

③ シンデレラは元々はどうだったか 

 ところで、シンデレラはグリム童話であるが、グリム童話といえば、版を重ねるごとに幾つも改新がなされたというほど、元は残酷な童話である。シンデレラの原型は、一体どのような形であっただろうか。以下は現在知られているものとの相違点

  1. 魔法使いが登場しない(当然カボチャの馬車も登場せず、代わりに白鳩が主人公を助ける)。
  2. 美しいドレスと靴を持ってくるのは、母親のそばに生えたハシバミの木にくる白い小鳥。
  3. ガラスの靴ではなく、1晩目は、2晩目はの靴である。
  4. シンデレラが靴を階段に残したのは偶然脱げたのではなく、王子があらかじめピッチ(ヤニ)を塗って靴が絡め取られたから。
  5. 王子が靴を手がかりにシンデレラを捜す際、連れ子の姉たちは靴に合わせるためにナイフ(長女が爪先、次女は踵)を切り落とす。しかしストッキングに血が滲んで見抜かれる。
  6. 物語の終わり、シンデレラの結婚式で姉2人はへつらって両脇に座るが、シンデレラの両肩に止まった白鳩に両目ともくり貫かれ失明する。

 

 姉たちが靴に合わせるために足を切り落とす描写は、なかなかショッキングだが、最も注目すべきは6番である。両目をくりぬかれるという残酷な描写で、しっかりと因果応報のオチをつけているわけである。シンデレラ、恐ろしや。

 シンデレラの原型は紆余曲折されど、結局姉たちは醜悪なまま、因果応報の裁きを受けていた。③までのことから推測出来るのは、姉たちの醜悪さは、子供にとってわかりやすく、読みやすいように、大げさに描く必要があったことと、因果応報という教訓を物語にこめるために、姉たちがその役割を果たしたということである。しかし、ディズニーアニメでの描かれ方には、アメリカという国の、道徳的絶対主義とも呼べるような、強烈に勧善懲悪を好む国民性も影響しているとも感じる。

 

④ 結論 

 以上で、シンデレラの義理姉たちの醜悪さについて語ってきた。童話は、教訓のテーマをこめるために、善悪二元論というわかりやすい形で描く必要があったが、現代ではこの童話の傾向に当てはまる作品を、私はひとつだけ知っている。それは「北斗の拳」である。

 「北斗の拳」は、世紀末、暴力だけが支配する世の中を北斗神拳の伝承者ケンシロウが、拳ひとつで生き延びるといった、シンデレラとは似ても似つかない、メルヘンの欠片もないストーリーであるが、これは私が思うに間違いなく童話の部類に入る。なぜなら、先ほど述べた童話の傾向、善悪二元論がこの「北斗の拳」にはスッポリと当てはまるからである。

 「北斗の拳」には大きな特徴がある。それは悪役と善人の描かれ方が、ハッキリと別れていることである。悪役はモヒカン、入れ墨、舌を垂らし、目をカッと開いた邪悪な容貌なのに対して、善人たちの顔立ちはどことなく、少女然とした、純真なものである。例え悪役であっても、悲しい過去、そして彼らなりの美学を持っている者は、荘厳とした顔立ちで描かれる。しかし、それ以外のものでは、シンデレラの義理姉と同じく、全く陰にスポットライトが当てられないまま、物語から退場していく。

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↑信念を持った強敵、善良な村人などは整った顔立ちで描かれる。

 

 勧善懲悪的な傾向がある「北斗の拳」において、その特徴が最も遺憾なく発揮されたのは、主人公ケンシロウの兄トキになりすましていた敵、アミバの存在だろう。このアミバというキャラクター、実は作者の意図の転換があったらしく、登場当初とは、その容姿が大きく違う。作者は兄トキを本当に描くつもりだったが、途中から思い直して、予定を変更したそうだ。この作者の予定変更は、少々強引な展開となっている。事実、アミバの容姿も、トキとして描かれた当初は、まだ善か悪かどちらにブレるか、あやふやなところがあったのだが、正体を現してアミバとなってからは、それまでの威厳はどこへやら、これまでの悪役と同じような断末魔を迎える。この変わりようは、まさに物語世界の神である作者による、善から悪への変遷が表れているのではないだろうか。

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上 登場時のアミバ、下、正体をバラしてからのアミバ

 

 これらのわかりやすい善悪二元論は、そのまま童話としての勧善懲悪の傾向にあてはまるように思われる。ケンシロウの制裁も、どこか因果応報の教訓じみている。例えば、ケンシロウが聖帝サウザーに立ち向かう時、「汚物は消毒だ~」と、火炎放射をまき散らしているサウザーの部下が出てくる。モヒカン頭にサングラスをかけているこの男は、いかにも悪役然としており、案の定この後ケンシロウに「お前の言う通り、汚物は消毒すべきだ」と、逆に自分が火炎放射器に晒されてしまうのだが、このような問答も、メルヘン作品の「自らに裁かせる」に通じるものがある。

 

 さて老王は今までの事情を王子のにせの花嫁である腰元に語り、

「このようなことをする女はどう処分したらよいか」ときくと、にせの花嫁は、「そういう女は着物を脱がせて丸裸にし、内側にとがった釘を打ち付けた樽に入れ、二頭の白馬にひかせ、町中を引きずりまわして殺してやるのがよろしいです。」と答える。老王は、「それはお前のことだ。お前は自分でお仕置きを考え出したから、そのとおりにしてやろう。」と言って、そのとおりの処刑をする。

                            (相沢博『メルヘンの世界』)

 

モヒカン頭は処罰の方法を聞かれたりはしていないが、後半の自分で口にしたとおりの方法で裁かれる、といった展開はほぼ似通っている。相沢によると、これらはメルヘンの独立した様式美であるという。北斗の拳は、この場面以外にも、幾つもの、様式美ともいえるような制裁の展開がある。それらのシーンに現れる悪役の間抜けさは、コメディのようでもあり、作品のお決まりのパターンとなっている。それは、悪役が完全な「悪」だからこそ、読者が素直に笑えるのである。善悪二元論は、北斗の拳では、様式美のひとつとして、欠かせない要素となっているのである。

 北斗の拳のような、ご都合主義や善悪二元論の勧善懲悪的なところのある漫画は、近頃、減った気がしないでもない。むしろ、心の闇というものにスポットライトがあてられる作品が、増えてきているのではないかとも思える。それは漫画というジャンルがもはや「童話」としての役割を終え、子供のものだけでなくなってきている、ということの現れなのかもしれない。