虫、動物の話。小話集。

尻尾のない猫
「おばあちゃん。」
 私は叫んだ。
 「あそこに尻尾のない猫がいるよ。」
 私が指さす方向には、屋根の上に乗った猫がいた。尻尾が途切れており、顔立ちもペットの「猫」ともてはやされているような可愛らしいものではなく、どこか野性を感じさせるような凄みがあった。まず、祖母の家に住み着いている猫のミーちゃんとはそこから違う。
 「あれはミーちゃんのお友達よ。」
 畑で農作業をしながら祖母が声をかける。どうやら猫は随分前から姿を現しているらしい。
 「哀れな猫だよ。」
 祖母はそういったきり、もう何も言わなかった。私も何も聞かなかった。子供がしつこく聞いて、農作業の邪魔をしてはいけぬ、という空気に、忖度した。とにかくあの猫は可哀想なことがあって尻尾を失った、可哀想な猫なのだと1人納得し、もう何も考えなかった。しかし尻尾を失った猫の、物悲しい姿だけは、いつまでも記憶に残っている。

犬、赤ん坊 
私はよく犬に吠えられる。気味が悪いほど吠えられる。赤ちゃんにもよく泣かれる。私の背後に何かがいて、それを彼らは感じ取るのか、はたまた、私自身の中にある内なる「悪」の存在を感じ取るのか。私はいつも悲しくなった。嫌われる理由が遺伝子レベルにまで及んでいるような気がして、つかみどころがないのも悲しかった。犬は嫌いだ。赤ん坊も。奴らは道理がわからぬ。哲学がわからぬ。

蚊、蜘蛛 
この間、部屋の中に蚊の死体を発見した。すぐにゴミ箱にティッシュで包んで捨てたが、私は何故か嬉しかった。ここのところ、誰とも喋らず、誰とも関わらず、家と学校との往復の日々だったからである。久々に私は私以外の生物と、身近に交わることが出来たのだ。だがすぐに蚊は死んだ。似たような事例で、いつかに侵入していた蜘蛛がある。小蜘蛛であった。天井に張り付いていた。小さい頃に、母が「蜘蛛は益虫だから殺してはだめよ。」と言っていたのを思い出し、私は殺さずにおこうと思った。しかし、ウロチョロされては気が散ってしまう。私は空になったお茶のペットボトルを使い、そいつを使って蜘蛛をペットボトルの中に閉じ込めることに成功した。ペットボトルの中を縦横無尽に駆け巡る蜘蛛。蜘蛛の足では、お茶でヌルヌルしているペットボトルの内壁は登り切ることは出来ない。間近で見ると可愛いものであった。だが、思い直して、蜘蛛はその日の夜にベランダに逃がしてしまった。「蜘蛛の糸」で極悪人のカンダタがたった一匹の蜘蛛を助けたことによって、お釈迦さまの目に止まったのが、頭に浮かび、1人ほくそ笑んだ。満足であった。

カマキリ
ミルワーム。カマキリを飼育していた時に、検索で出てきた「餌」である。カマキリの餌としては専門のサイトでは△の評価であった。逆にカマキリが内臓を食い破られる可能性があるかららしい。私はミルワームは御免だと思った。第一、字面からしてグロテスクではないか。私は表情のある、カマキリのような虫は好きである。表情のない虫はイマイチ何を考えているかわからなくて苦手だ。カマキリは表情がある。目がパッチリしている。食べるときはムシャムシャと食べる。その日のカマキリへの餌は、市販の豚肉にすることにした。カマキリは生き餌を好むから、割りばしに巻き付けて、生き物のようにカモフラージュして与えた。カマキリは嬉しそうであった。そのカマキリはそれからほどなくして段々と弱っていき。死んでしまった。

 オタマジャクシ
小学校のクラスでオタマジャクシを飼っていたことがある。誰かが捕まえてきて、それを共有の水槽に入れたのだ。オタマジャクシは着々と大きくなり、皆が蛙になるのは遠くはないと思われた。しかし、一匹が成長して蛙になったのを、私たちが手に載せて遊ばせていたとき、元の水槽に戻そうとしたら、他のオタマジャクシが一斉にして蛙めがけて物凄いスピードで寄ってきた。慌てて蛙を水槽から出した。オタマジャクシたちはどこか異常になっていた。蛙は別の水槽で飼うことにした。次の週、オタマジャクシたちは、専用の餌を食べなくなった。次の週、一匹のオタマジャクシが腹を食い破られて水槽の中で死んでいた。私たちは、共食いだと囁きあった。この時ばかりは、オタマジャクシのその腫れぼったいような膨れ面と、焦点の合わない目が、狂気を感じさせた。私はこれに通じる風貌を見たことがある。人間がテレビゲームに熱中している顔だ。彼らは我関せず、といった状態で、画面以外のことが何も見えていない。没頭し過ぎて遠くの世界に行ってしまっている。彼らのその時の目は、まさにオタマジャクシそのものであった。それからオタマジャクシは次々と死んでいき、水槽の中は何故か緑のコケで一杯になった。以上の理由で私はオタマジャクシが苦手である。
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