文学的な感傷

 文学的な感傷というのは、人生においてはかなり重要であろう。居酒屋で酩酊しながら老人が語るとき、その話の内容は決まって昔の思い出話である。彼らは思い出を感傷を交えて語り、アルコールの酔いに任せてその気分に浸っているのである。酒にとって最高の肴とは「感傷」ではないだろうか…。
 このように、人生を楽しむためには、様々な経験を文学的な感傷に昇華するのは、必須条件ともいえるが、しばしばこの文学的な感傷というヤツには穴がある。時には嫌味でさえある、と私は思っている。
 感傷というのは、とどのつまり、体験に「オチ」をつけることである。悲しい経験、怒れる経験、苦しい経験を、主観を交えて語るのである。そこに登場する他人の思惑など、「もしかして」が付きまとう可能性を全て無視して、物語作品の神である、作者のような視点で、自分の都合の良いように切り取るのである。例えば、極端な例を出して言えば、ヤンキーがいじめをしたとする。時が経ってヤンキーが過去を振り返り「○○は学校に来なくなった。そのあと彼がどうなったか知らない…。」と、さも悲しげにオチをつけて語るとする。傲慢である。まるで、そのあといじめられッ子が回復の余地なく、人生が下地に向かったようではないか。そして、肝心のヤンキーだけ妙に悟ったようでいて、結局変わっているようで何も成長していないのだ。これは極端な例だが、もっと日常で感傷は頻繁に起こっている。
 このように、オチをつけるとは「終」であり、時にはとても独り善がりな結果になりかねない。反面、過去の嫌な思い出を語り直すときは、このオチの力は絶大なものとなって影響してくれるだろう。しかし、物事が単純化されているようでなんとも気持ち悪く感じてしまう。
 私は文学的な感傷が大好きである。酒に酔っ払いながら、私は私の悲しい過去を語るのが好きであるし、何かの体験を感傷に浸りながらインターネットに発信することなども好んでいる。とても自分勝手な奴だと思う。出来れば、他人に迷惑のかからないように楽しみたいものである。f:id:MIKELANJYERO:20180211035307j:plain