自称進学校の高校時代

「自称進学校」という言葉がある。主に60~65の偏差値を持ち、厳格な規則、大量の課題提出などが特徴とされ、その厳格さに進学率が見合っていない高校のことを差す。私は、高校時代、この特徴が大いに当てはまる「自称進学校」というものにいた。それにしてもインターネットというものは助かる。どこかで、モヤモヤとした曖昧さがあると、誰かが言葉にしてスッキリさせてくれるからである。他には「思い出補正」という言葉にも、私は同様の感銘を受けた。

 この「自称進学校」であるが、規則や課題の縛り付けで、生徒たちのストレスが溜まるとされているが、私が在学中に感じた「自称進学校」最大の特徴は、この60~65という偏差値に集まる「層」であった。一般に、頭が良いゆえに人間性が足りない、根性が足りない、などのステレオタイプが当てはまるのは「灘」や「開成」という超進学校ではない。彼らは行動力があるし、膨大な知識の上に成り立った、素直さと寛容さがある。私が在学中に感じた自称進学校の生徒たちは「中学時代に一番になれず、しかし成績だけはそこそこ取り続けた、コミュニケーションの不得手な子供たち」というものであった。彼らはだいたい、中学までに、ヤンキーな層に押されて、クラスであまり目立たなかった、もしくは「二番手」に甘んじていた子供たちであり、周囲の顔色を窺うことで、何とか傷つかないように生きてきた。無論、これに限る生徒ばかりではないのだが、全校の半分はこれに該当していたのではないだろうか。以下、私が中学と比較して気づいた、高校時代のクラスメイトたちの特徴である

 

・喧嘩になりそうになると、「距離」を取る

・利益重視の人間関係

・見るからに怖そうな人間には近寄らない、逆に弱そうな人間は徹底的に侮る

・周囲の人間の視線を常に気にする(気にしてきた生徒が多いから?)

・関係に上下をつけたがる

・「高校時代はこんなキャラでなかった」と言う人間の多さ(高校デビューが多い)

・誤解や疑いが、大した異論もなく急速に浸透する

・度を越した下ネタ率の多さ

・上に関連するが、「楽しそうな高校生」のイメージだけが先行され、楽しさが実態に伴わないものが多い。

・陰キャラ、陽キャラの溝の深さ。互いのグループに関心がない

・偏見に流されやすい

 

そんなことはどこの学校にでもあり得る、という声が聞こえてきそうだが、私はこの「喧嘩になりそうになると『距離』を取る」だけは、この偏差値の層の子供たちにしかありえない特徴だろうと思っている。私は、あまり高校が楽しくなかった。皆が一直線にありもしない「最高の青春」に向かっているのが、何となく気持ち悪かったし、私自身、その幻想に一時期囚われていたという事実に、本当に頭を痛くさせられる。学校のつまらなさは、勿論私のコミュニケーション能力の不足なども、十分関係していたのだが、私の高校の、一種異様な雰囲気は、やはり学校という閉鎖空間と、偏差値の中途半端さが影響していたのではと、今では思っている。大学に上がり、地元から出ると、反面、大学の多様性とアカデミックな空気にすっかりと馴染んでしまった。私は大学では極力友達を作ろうとはしなかった。そのおかげで、私が講義を抜け出そうと、ぼっちで飯を食べていようと、ダサイ服で歩いていようと、誰も気にしない。とても気持ちが良い。

高校時代はまるで悪夢のようであった。今でも目が覚めて「ああ良かった…もう高校ではないのか」と、ホッと安心する時もある。ここでは上手く語れないが、私は高校時代の出来事が原因でもう地元に帰ることが出来ない。時々思い出しては、鼻血が出るまで自分の鼻を殴り、その傷の幾つかは顔にまだ残っている。他人の言動から思い出に繋がり、しばらく考え込んでしまうときもある。しかし、私はそれらの経験を無かったことにしたいとは思えない。時々、「過去にいつまでも囚われてはいけない」と言ってくれる人がいる。紋切り型の文句で、昔の私は、それを自立した大人の立派な発言だと思っていたが、今は違う。過去は囚われる、囚われないでは語れないし、過去は切り離すものではない。過去は間違いなくその人の一部であり、人間は自分を形作る過去から未来に向かうしかないのである。