ネットに見る「身体」

 現代人にとって、インターネットは欠かせないものとなってきている。それは、スマートフォンの普及によってますます加速し、もはやスマートフォン以前の生活など、考えられない。ところで、あなたは「メンヘラ」という単語をご存知だろうか。「メンヘラ」とは、メンタルヘルスに問題を抱える人間の総称なのだが、現代では、この「メンヘラ」が多くなってきているようにも思える。精神医学では、最近の患者数はむしろ減ってきているのだが、この「メンヘラ」の増加は、「見る者」「見られるもの」の関係で成り立つ「舞台」としてのインターネットの増加が、大いに関係しているように私は感じる。そこには「ファンタジア」にあるアニメーションとしての「身体」以上のものが関係しているように思える。本論ではネットで何故メンヘラが多くみられるか、「身体」を絡めながら論じていきたい。
1. 舞台とは
 放送大学教材『舞台芸術論』の中で、著者の渡辺守章は、舞台は「演じる者」「見る者」「演じられるもの」「演者と観客を一つに結ぶ空間=劇場」の4つの要素によって構成されていると語る。現代のSNSにおいて、これらの要素はほぼ当てはまると言ってもよい。Twitterで言うと、まずアカウントがある。これが演じる者である。そしてそれを観察する「フォロワー」という「見る者」がいる。「演じられるもの」これはしばしばインターネットで囁かれる「コンテンツ」というものである。そして最後の劇場はまごうことなく「Twitter」である。
 メンヘラは、Twitterにおいてかなり頻繁に見受けられる。彼ら彼女らは、自らの自傷行為の様子を写真に撮ってTwitterに挙げたり、恋人とのLINEをUPしたりする。フォロワーはそれを見て心配し、慰めのリプライを送るが、わたしが思うに、メンヘラは決して慰めのリプライが欲しくて自傷画像を上げているのではないし、「カワイソウなワタシ」を演じたいのだと定義するには、あまりにも十分でないように感じる。人間は「アイデンティティ」がなければ不安定な存在であり、常に自分が何者かを探し求める存在である。メンヘラは不幸を発信し、「見られるもの」がいる空間を通して、はじめて「メンヘラ」という何者かになることが出来るのである。
 これはメンヘラの行動の分析だが、そもそも、「見られるもの」がいる空間が沢山ある現代のインターネット社会は、自分が何者かであることを或る意味発信しやすい、あるいは定義しやすい時代なのだと言える。何者かであることを発信するのは、すなわち「演じる」ということである。次章では、インターネットにおける「身体」が、この「演じる」という行為において、どのような影響を与えているか、説明する。

2. インターネットの「身体」
 渡辺守章は先に挙げた4要素の他に、見る者が見られるものの行動を受け入れる、「虚構的な空間」が必要とする。インターネットは「嘘」と「現実」が入り混じる虚構的な空間であり、その点、一種の非日常性が発生する。インターネットは文字のみのコミュニケーションであり、「二次元」の虚構世界と揶揄されることもあるが、私はインターネットは2.5次元の世界だと言いたい。それには、書き込む人間が現実のものだから、という意味もあるが、重要なのは「アイコン」と「煽り画像」の存在である。
 「アイコン」はSNSにおいてその人の「顔」の役割を果たす、プロフィールの画像のことである。Facebookなどとは違い、Twitterでは二次元のキャラクターや無機質、動物などをアイコンにしている方が多い。タイムライン上でのやりとりを見ると、多種多様なキャラクターが会話をしているような錯覚に陥る。一例に「ネカマ」の存在がある。ネカマとは、中身が男なのに、女のフリをしているユーザーのことであるが、Twitterの「ネカマ」たちは、大概が可愛らしい女の子のキャラクターをアイコンに設定している。これは、アイコンが「顔」という「身体」として認識されていることに他ならない。
 「煽り画像」は、漫画の一コマなど、会話の代わりとして使われる画像の総称である。これも国民的漫画「ドラえもん」の一例を出してみる。画像はドラえもんが「いやそのりくつはおかしい」と言っているシーンであるが、何か異議のあった時にTwitterでこれを使う人間が多い。「煽り画像」で特徴的なのは、表情、声のトーン、勢いなど、文字だけでは成立しなかったコミュニケーションが表現できるところである。一般に、コミュニケーション能力の無い「オタク」たちが「煽り画像」を使うとされるが、彼らからしたら、これほど便利に「身体」を表現できるものはないであろう。
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 以上のことを統合すると、インターネットは「身体」を表現できるものが溢れており、それによって「何者か」を演じやすい空間なのである。ネットのこういった演じやすさについてしばしば「コンテンツ」などと言われるものがある。「メンヘラ」というキャラクターも、たまにフォロワーがまるで評論家のように楽しんでいることもある。こういった風潮について、「私は私の好きなことを呟きたいだけなのに、つまらなくなったと言ってくるやつは何なの?」と怒りを示す人間もいるが、それはTwitterが見る者の関係なくしては成立し得ない「劇場」であることが、暗喩されているのではないだろうか。
3. 終章
 精神病の軽症化が進んでいるにも関わらず、「メンヘラ」が増えているのは何故か。講談社現代新書リストカット』では、メンヘラの性質は伝染するとしている。イギリスのダイアナ妃が自傷行為をしていると公になったとき、世界でそれに相次ぐものが増えた。日本でも藤村操という中学生が自殺したとき、全国で後追い自殺が続いた。現代において、こうした「演じるモデル」が多々にみられること、そしてインターネットという「劇場」があることで、世の中の不幸(一概には言えぬがこの単語を使わせて頂く)な環境の人々は、アイデンティティを求める場として、自分が「何者か」であることを発信しやすい環境が整っているのではないだろうか。精神病者が増えたというよりは、発信できる「劇場」が増えたのである。